カマネコ探検隊夜明け前(2)

〜9月の陽光は胸にしまわれたまま、極東の片隅で静かに成長していった。

1982年9月、パリから帰国した私は大学に戻り、理学部地質学科の専門課程へ進学した。1980〜1981年の平尾台合同調査、1981年から1982年の稲積山地域洞窟調査の成果がそれぞれ「平尾台の石灰洞」、「稲積鍾乳洞」として日本洞窟協会より発行され、大学入学以来のケイビング活動が一段落したところだった。次のフィールドとしては既に熊本の五木・五家荘地域を偵察していたし、平尾台については、測量に探検に、まだまだやり残していることがリストアップされていた。
特に平尾台合同調査の過程で洞窟に入りまくったときに、石灰岩中に存在する多数の岩脈と洞窟の形成との関係に興味を持っていたため、地質の専門知識の必要性を痛感していた。そして、大学での勉強が進むにつれて、これまで洞窟の成因だ、発達史だといいながら、いかにいいかげんな知識と方法であやふやな考え方をしていたかが少しづつわかってきた。だが、まだ自分の進むべき道は見えていない。洞窟のことを地質でできないだろうか、と考えていたが、大学で洞窟の研究を直接うけいれてくれる講座は存在しなかった。
九州大学探検部周辺のケイバーが集まって、「スペレオ学習会」というスペレオロジーの勉強会を開いたのもこの頃である。ケイバーとしても、専門的に正確な洞窟の知識を持つことの必要性を感じていた。私と井倉で呼びかけ、吉村、常磐、宗、池田といったメンバーが週一回集まり、地質、地下水、鉱物、化学、成因などについて各自が分担して話をした。地形については話せる人間がいないことも含めて、その後の「秋芳洞を調べる会」、「カルスト研究会」の伏線となるような集まりだった。「スペレオ学習会」は5〜6回続いて参加者の分担が一周した頃に途絶えたが、これを機会に各自が互いの専門分野を認め合い、また自分の専門分野の可能性をある程度明確にすることができたと思う。
この勉強会のラインナップが、今後九大グループとして、各地で洞窟学的調査に成果を上げていくことになるのである。
この年の冬は数年ぶりにケイビング合宿に参加せず、東京で一週間過ごした。これは直接ケイビングには関係ないことのようだが、実はカマネコの結成に深く静かに影響してくるような気がするのだった。(つづく)

浦田健作

[BGM:Miss Cast by 沢田研二]


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